昭和43年4月30日 夜の御理解 (末永信太郎) №43-064
・・・ここを下がらせてもらってから、高橋さんが朝から御用を頂いておられましたから、またあの、尿の検査をして頂きました。おかげを頂いてから、もう、本当にもう、ほとんど糖が出ません。もう、百のものであるならば、97~98パーセントぐらいおかげを受けておる。もうちょっと、もう本当に気が付かんくらいに青い色が出るくらいにおかげを頂いております。
まあ、言うなら全快寸前というようなところまでおかげを頂いております。もう、そのことを久富先生はまだ聞いておりませんでしたから、先ほど、今日はこういうのでしたと言うてから、お話をしたことです。久富先生が、本当にもう、親先生の体は神様のご都合ですから、本当に分かりませんですもんね、というようなことを言われるんです。
で私が、久富先生、私の体だけのことじゃない、みんなも同じことだて私が。ね。もう、誰だって同じなんだ。結局その、糖尿病と、まあ、言うてはおるけれども、実際は糖尿病じゃないのだ、病気じゃないのだ、神様のご都合なの、と信じさせて頂くこと、信心とは。どんな問題があっても、それを、これは人間関係であろうが、様々ないわば、最近私がみんなに言うておる一切神愛ということである。ね。
だから、本当に神様のご都合なんです。子供が言うことを聞かんということも、災難に遭うということも。だから、そこの神様のご都合と悟らせてもらうと、だから、例えば私のこの糖尿病なら糖尿病と。ね。私の体の上に次々と、まあ、異常なことが起こって参りますようね。足が立たなくなったりした時代があったり。けれども、そん時に、本当に神様のご都合ということを、まあ、分かり得るだけでも、まあ、色々と、はあ、こういうご都合であったんだなということが分かるのです。
例えば、今度の糖尿病ということでもそうでした。もう、重体ということでしたかね。病院でも入院しなければならないということだったんですけれども、段々おかげを頂きました。まあ、第一にこれはどういうご都合かと言うと、私をより一段、改めさせて下さろうとする神様のご都合であった。ね。一番の私は神様のご都合というのは、神様ご自身が、ね、よりもっと、神様のお働きを十全になされたい。言うなら、神の道をもっと開きたい、私を通して開かせたい。
いわゆる、神の願いのままのご都合であったということ。ね。神様ご自身が、言うならもっと世に現われたいという願いが、そういう現れが、私の上に糖尿病として現れた。ね。同時に、私のより改まりのことを願っての糖尿病でもあった。ね。同時に、ね、御信者さん方がそのために、ね、自分も親先生だけにひもじい思いはさせません、と。私も小食にさせてもらうといった修行をなさったり、日々、親先生、親先生という沢山のお届けがありますようにです、御信者さん方の上にもです、ね、いよいよ、取次者との交流と言うかね、いよいよ、取次者を取次者としての、金光大神の手代わりとしての頂き方が出来ることのための御信者さん方の修行でもあった。そういうご都合でもあった。
これはもう、私は今、分かり得ておるだけでもそうである。おかげで、信者さんが信心が進んだ、おかげで私は改まることが出けた。だけではない、神様の願いまでが成就の一途を辿って行くことになった。というように、まあ、言うならまだ限りがないのです。
目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと今朝の御理解にも頂くように。知ったかげより知らぬおかげの方が多いと仰るように、知らんところ、目に見えんところには、まだまだ、神様の例えば一石を投じて下さることの波紋ていうものは非常に大きいものである。そこでお互い、信心させて頂いて、どのようなこと、どのような場合でもです、神様のご都合、と。例えば、それが病気である場合は、これは、ね、病気と名を付けてはならんて実際は、神様のご都合だ、と。
んなら、どういうご都合であろうかということを、一つでも二つでも分からせて頂いて、そこんところの神様の御神意に添うて行こうとする生き方が、私は信心させて頂く者の姿勢でなからなければならんと思う。私は肺病でございます、私は胃癌でございます。その胃癌とか肺病とか、あるはずはないて実際は。あるのは、神様のご都合だけだて。
なら、私の上に現れて来る、なら、私の上のことだけが、もう、不可思議極まるです。ね。一日、何日も足が動かんごとなっとったかと思うと、さあ、月次祭と言うたら、ピュッと足が動くようになった、と。どうでも、今の医学の上で言うてです、これだけの重体の糖が出ておるのが、このくらいの養生でです、そんなに簡単に糖が取れてしまうといったような事はあり得ないて。ね。
ですから、その、私の頂き方がです、ね、病気とは一つも思ってない、神様のご都合だと思うておるだけなんです。まいっちょ、大きな一つのご都合がある。それは、私がその、卑しいから、その卑しいのを封じようという神様の願いも、まいっちょある。まあだ、限りがないて、良うと考えると。同時に、気が付かない、知らないところ、ね、目に見えないところに神様のお働き、おかげというものは、いわゆる、おかげを下さろうとするそのご都合というのがです。ね。
だから、一切神愛ということが言えるでしょうが。お互いそこんところをですね、本当にそうだと信じさせて頂くということがです、お互いがおかげを頂いて行く上に、ね、神様をいよいよ信じさせてもらえれる、おかげの頂けれる元になるもんだと思う。ね。それは、よく言われますよね、一切神様のご都合だ、と。
だから、まあ、ある人が、ある教会に参っておる方がです、何か難儀なことが起こって来ると先生が、そげなんとは神様のご都合でっしょうち。もう、あげん言われると腹ん立つち。どういうご都合ですかて言おうごたる。どういうご都合て人に伺うことが出けるもんか。自分自身がどういうご都合て分からじゃこて。
私はそう思うのです。ね、それを、まあ、ここでは私の体を通して、なるほどと合点が行くようにあるでしょうが。だから、親先生の体だけは別物ではなくてです、ね、私のような頂き方こそが、本当の頂き方なんだから、ね、そのご都合であるところが一つでも分からせてもろうて、信心が向上して行かなきゃならん。ね。私の体の上に、例えばそのような、まあ、言うなら不思議なおかげを頂いて。私の体のだけに不思議なおかげが頂かれるのじゃない。みんなも頂き方一つで、そういうおかげになって来る。
神様のご都合と、( )。どのような問題があっても、神様のご都合じゃが、と言えていつも平生心が保っておれれるようなおかげを頂かにゃかいけん。そして、自分としてはどういうご都合であるかということは、自分自身が分かって行かにゃいけん、それは苦しいことであるならば。
それは難儀なことであるなら、であるほどにです、神様の御神意をいよいよ深く悟らせてもろうて、おかげを頂いて行かなきゃならんと思うですね。どうぞ。